Canned Heat/poor moon、歌詞の話

歌詞では月にyouと呼びかけている。そして人類が地球を破壊しているように、美しい月がいつ破壊されてしまうのだろうかと心配しながらも、年老いても子供の頃に見たような輝かしい姿で再開することを祈っている。意味を調べてみたらそんな詩でした。

月の破壊に対する個人の無力さはoh well(仕方がないね)とサビでリフレインし、絶滅の記号を纏った狼の遠吠えに似た切なさをおぼえる。曲調自体が暗くないので歌詞を知ると余計にその切なさが際立つ。

日本語でさえリスニング中に歌詞の意味を理解することがままならない自分。しかし意味にフォーカスしてみると面白いことも当たり前に結構あって。ただ不自然なくらい注意を払わないと歌詞を理解する脳は作動しない、ってくらい歌詞のことをなんも考えられない自分の脳はなんなんでしょう。英語はそもそも意味がわからないから脳が音として早々に処理するだろうけど、日本語くらいは最初から意味も理解しながら聴きたいものです。

思うに音に対して詩を普通に歌い回すの場合自分は「歌詞は日本語を話しているな」程度で安心してしまう。すると詩を解釈する機能はスっと無意識に追いやられてしまい意味を追えなくなってしまうのだと思う。映画をみていて劇伴を途中から拾えなくなるのと同じ感じ。普通の歌い回しって、何が普通かは説明出来ません、弱し、謝!

〜〜〜ザザーン〜〜〜

大瀧詠一は音に対する詩の載せ方のバリエーションに自明的なアプローチをしている。そうすると意味を解釈する無意識の部分に引っかかって詩を意識させられる。同じ歌でも大瀧詠一提供の曲を他の人が歌うのと大瀧詠一セルフカバーでは歌い回しが違うことに気付いたとき結構驚いた事を思い出す。

大瀧詠一の詩のアプローチについては細馬氏が解説しているのでこちらを参照してください。

話戻しますが、poor moon。コーラスとギタートレモロで醸造されたサイケにイントロからやられる。

たばこ屋で流れてていいなと思った曲の紹介でした。

郷ひろみのカセット

郷ひろみのカセットを聴いてます。カセットといっても誰かがダビングしたもの。数年前、枕ほどの大きさのカセットケースに昭和歌謡をダビングしたカセットがびっしり詰まっているのを散歩中に発見して家に持ち帰った、その中の一つ。

カセットの最後にはヒロミメドレーなるものが入っており、これがテレビ番組か何かで披露したと思われるメドレー。「ハリウッド・スキャンダル」という曲が良い、と思ったら都倉俊一作曲でした。都倉先生!その次に流れてきたのは同じく郷ひろみ、都倉俊一タッグの「バイブレーション」だがこの曲はもろピンクレディー流用な感じでした、これはないだろう。

郷ひろみはとにかく声が凄い変だから御三家で一番好き。そして初期の中性的な感じから後半マッチョくなったのはなんなんだろう。身体が筋肉質になるのと精神的に非マッチョであることは概念的には別だから郷ひろみが精神的にマッチョくなっていったかは不明なんだけど、ただ身体的にも売り方的にもマッチョくなったというか。自分が芸能人なら、芸事を続けるために要求されるストイックさを受け入れるためにマッチョを導入してアイデンティティを維持する、みたいな感じになるかも、とは思ったり。というかこの話、自分のリアルタイムの郷ひろみ像がゴールドフィンガーであることに支配されてますので無視してください。あれで肉体美を見せつける振り付けがあってめちゃ流行ってました。関係ないけどゴールドフィンガーの「燃えてるんだろうか」の歌詞の部分はカバー元曲の発音のニュアンス先行で日本語詩をふっていて、アナ雪のレリゴーと同じ方法論かと。

野口五郎のしみったれ感も年々気になる。野口五郎のグッドラックは名曲でなんだけどこれは坂本慎太郎が何かでレコメンドしてて知った、一聴して坂本慎太郎が推す理由にピンときます。

馬渡松子『さよならbyebye』

ニチイという名の日用品と洋服が売っている複合設施設があったが、その頃にはだいぶボロくなって色あせて、数年前ほどの人の入りはなく、うちのばあちゃんのような世代の人たちが洋服を買いに行くくらいになっていた。上の階にはゲーム機が置いてあって、『バブルボブル』なんかのゲームが置いてあったが、パズルボブルはその頃すでにけっこう古いゲームで、ずっと同じ型のゲーム機が取り替えられないまま置かれていたんだと思う。そんなニチイの二階へあがる階段の前のベンチで友人と漫画を読んでいたら、ワルの上級生だちが大声でいいカモがおるわと笑いながら階段を上ってきた。このワルとはいろいろ思い出がある……。あつカネサキ!!!!!しまった!と二人とも硬直…。「お前ら何読んでんねん?コラァ」と、殴られるだけでなくカツアゲされ漫画まで取られるのかとおびえていると、「なんや、ダイの大冒険読んでんのか………。お前らええ奴やなぁ」と笑ってくれて、じゃあなとそいつらは古びたゲーム機で遊ぶためにフロアへ消えていった。ダイの大冒険を読んでいたのでカツアゲから逃れられたのだった………!!!
ということで新しくなった『ダイの大冒険』観てます。最初の方は改変部分におこでしたが、とりあえず前回放送が終わってしまったとこらへんまで進んだので、今回はラストまで制作してほしい。改変でまさかポップがメガンテしないストーリーなのかと思ったけどちゃんとメガンテしてよかった……メガンテしてよかったって何だ。泣きました不覚にも。メガンテして竜の血を飲みギラで一片の花びらを燃やしてしまうことなく、指先の一点に魔法力を集中し、花びらの中心に小さな穴をあけるほどの魔法使いになるのでメガンテしないわけにはいかないのです…が…
子供の頃はお小遣いが少なかったので毎週ジャンプを買うことができずコロコロコミックで育ち、もちろん漫画全巻買うことも諦めていたので、友達がくれた図書券でダイの13巻だけ買って、それを何回も読みました。(その後その友人からはやっぱり図書券かえせと何度も…)
13巻のアニメ化が楽しみ。しかしOPとEDはいかがなものかと…まず「生きるをする」っていうタイトルが~…(その後慣れ・OPはこれなんだとフォーマット完了…)
アニメの中身は戦って強くなってまた更に強力な敵が現れて強くなるという単純なものだったとしても、幽遊白書のOP・EDなんかは、アホな男子児童だちになんとも言えない気分を味合わせていたと思う(味合わせることに成功させていたと思う)。特にED曲の『さよならbyebye』なんて。大人の別れの曲を聴いて、まだそれを体験したことがない子供たちがその体験を想像して感じる気持ち。なぜかそれがわかるような気がする、そんな経験をいつか自分が体験するのかな、するのだろう、その時どんなことを感じるんだろう………と。そんなふうに考えて聴いていた自分は感じやすい子供だったのか?
いま子供たちがTVでアニメを観るというのが当たり前でない時代にあって、90年代と同じではないにしても、子供の感性をえぐるような、ちょっと残酷かもしれない大人の気持ちを感じさせるようなOP・EDが使われているアニメがあるなら知りたい。
いま聞き返してみると歌い方や声質はやはり違うのだけれど、パイナップルの『Diamond Crack』を最初に聴いたときは、幽遊白書の歌の人の声でこんな世界あるの?!って驚いた。ちょっと例えが違うが灰野敬二がカヴァーしている堀内孝雄『君の瞳は10000ボルト』を聴いたときのような……この声質でこのうたの世界があるのかと驚いたのでした。ほかにあれば聴きたいな。この時の馬渡松子の声に近い曲。ここのところの気分としては『ホームワークが終わらない』だけど……。

真心ブラザーズ/Dear, Summer Friend

真心ブラザーズでサマーソングといえば、紛れもなくサマーヌードという名曲があるし、出た当時バンド自体が長らく活動してなかったのもあって地味な扱いをされるものの、どうにもこの曲妙に引っかかる部分がかなり多い。

そもそもタイトルの『Summer Friend』なのであろう「君」の輪郭がすごくぼんやりしている。「キスしたら楽勝で世界は笑うほど変わ」る「ためらった瞬間に夏は終わるかも」しれないから「帰したくない」「君」はどうやら「夏が終わる」と居なくなってしまうようだ。主人公は「君」に「手を離さないで」と語りかけ、「長く熱い夜のドアを開けて」「旅に」出る。 友達との楽しい時期を季節そのものに表しているというか、あるいはsummer of loveとか、そういったムーブメントの隠喩にも見えるけど、作詞曲の桜井秀俊氏はあくまでもポップスの人であってサイケデリックカルチャーはほぼ関係が無いし、夏を人生の絶頂期に喩えるというのはベタもベタ過ぎる常套手段だろう。

6109.jpというブログ日記にて桜井氏本人によるこの詞に関しての記述があったんだけど、2021年現在サイトごと無くなってしまいWebarchiveですら見つけることができなかった。
大まかな概要を書いていくと、CMプランナーの佐藤雅彦が提唱した文節の語尾を1〜3文字残し、次の文節の歌い出しにして、しりとり的に詞のストーリーを進めていく「つながりうた」を桜井氏自身のバンド・真心ブラザーズに応用したのがこの曲ということだった。佐藤雅彦の発案・作詞による『ピタゴラスイッチ』用に制作された「つながりうた もりのおく」は、CDにはなっているが現在サブスクどころかYouTubeにすら上がってないもので、とりあえず▼の歌詞のスクショ画像を見てみてほしい。


▲これを踏まえてあらためて▶︎▶︎「Dear, Summer Friend」の歌詞をリンク飛んで読んでみてください。どういうことか、意味わかったかな?

この”つながりうた”という言葉遊びの前提も面白い話なんだけど、もうひとつ、それとも何か違うひっかかりがある。それはなんだろう? と、歌詞カードを読み直してみた。
作中に「陽が沈む」描写が2回、1番と2番に両方出てくる。さらに「長く熱い夜のドアを開け」るくだりが2回出てくるので、この歌の中では少なくとも2日が経過しているわけだ。夕陽が沈むくだりが夏が終わる事の隠喩と仮定すると、1番と2番はそれぞれ別の年の夏(要するに2年経過している)なのではないか、とも考えられる。 そして、1度続いた”つながり”は1番サビの後のもう1回「君とキスしたら〜」でリセットされてしまう。前述した桜井氏の当時の文中からだと、

(ここでワンコーラス終了。その際“つながり”を切ったら肉体的にも途切れる感覚になるのではないかと、あえて“つながり”を切断。冒頭の発音に戻ってみました。)

その後間奏に続いて、2番「横道は無視した〜」と、歌詞は違えどまた「君とキスしたら〜」とおなじAメロで歌われる。そう、1番と2番の「君」はおなじ「君」ではないのかもしれない。いや、おなじ人物だけど、この季節のパラレルワールドの「君」だとすればどうだろう…?
どんどんSFというかラノベめいた話になってきましたが。 さらに桜井氏の文中からは、

最後の一節、「お」わらない旅に出る「よ」(ロングトーン。すなわちラスト一行は“つながりうた”的にはエンドレスに循環可能。)

しかし、これを通常通りに「よ」と判断した場合はそのまま間奏明け2番の「横道は無視した〜」に繋げられる。2番の主人公は終わらない旅に出て、また2番の冒頭に戻り、以下ずっとループする。 1番目には物語そのものが切断されてしまい、2番目は終わらない旅に出ていく。1番と2番の主人公を同一人物としても「ためらった瞬間に夏が終わるかも」ということは、1番で「ためらってしまった」後悔からこのループに入るのだ、ともとれるし、「大人になれば夏は終わる」かもしれないけど、この「光の季節」は続けようと思えばいくらだって続けられるんだ、という意味にも捉えられる。

なお、この曲は2005年発表。影響あるのかどうかはわかりませんが、『涼宮ハルヒの憂鬱』エンドレス・エイトは2003年、単行本に収録されたのは2004年(もっと言えばアニメ化して騒動になったのは2009年)でした。もっとも、桜井さんの世代だとハルヒというよりは『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』だろうなあ、と。