投稿者: FALRec
Houseside / E.S.P.
Nico / Live In Denmark
ニコがマンチェスターをすみかとし、地元のポストパンク・バンド=ブルー・オーキッズをバックに従えていたと思しき時代(クレジットがどこにもないので不明)の82年デンマーク・ライヴ盤。
いつになくソリッドな演奏に(ニコが残す数多くのライヴ録音の中でも格別)、あの漆のように黒く深い、永劫の闇のなかから拾われてきたような歌声がそよそよと立ち現われ、異様な緊張と不気味な美しさを醸し出す。いまにも消え入りそうなロウソクの火のようにはかなく、底にはぼろぼろの危うさを持つ率直な美しさ。
ニコがハーモニウムの前に座り、”Janitor Of Lunacy”を歌い始める瞬間の魔力。その鈍く輝く持続低音の閃光はヨーロッパの深き哀愁であり、何かの凶変が今にも突発するのではないかという不吉な予感とともに、まるでひとりぼっちの少女の孤独のように愛おしい。
Tony Conrad / Bryant Park Moratorium Rally
1969年10月15日、午後。マンハッタン42番街にあるロフトの5階にて、録音のためのマイクを調整するトニー・コンラッド氏。左マイクは近所のブライアント・パークで開かれていた反ベトナム戦争集会の熱気がもれ聞こえる部屋の窓に向けられ、そして、右マイクはその集会の様子を実況生中継していたコンラッドの部屋のテレビに設置され、ローカルニュースの音声を捕獲する。
そんなフィールドレコーディングとしての特異すぎるアイデアだけでも好奇心をくすぐるのに、この録音には、群衆の演説、怒号、歓声、シュプレヒコール、車のサイレン、クラクション、警官のホイッスルなどのエネルギッシュな騒音。そして、ニューキャスターやコメンテーターのトークらが、ささくれ立った砂混じりの暴風のように迫りくる混沌として収められ、さらには、左の現実の音(リアリティ)が右のテレビの音(メディア)より少し遅れて聞こえてくるという—— メディアに踊らされる大衆を批判するかのようにも響く⁉︎—— 天然エコー/ディレイ効果を得られることにより聞く者の耳が研ぎ澄まされ、みるみる開いてはぐちゅぐちゅと感度を高めていき、終いには自分の耳がコンラッドの耳と入れ替わったような……いわく言いがたい快感を味わうことができる
現場の不穏と居間の平穏。一つの出来事が耳のすぐ側で同時進行しつつも、平行線のままいつまでも交わることのない似て非なる二つのノイズ。
本作のコンセプトを含めた実験音楽としての素晴らしい成果は言わずもがな。そして、この音は、そこにコンラッドが居合わせたという歴史的偶然と録音手法の奇妙な閃めきによって永久保存された「モラトリアム世代の熱くて淡いノスタルジア」としても貴重なドキュメントである。しかしながら、この記録をただ楽観的に耳にするには、まったくもって世界はいまだに悲劇的すぎる。
Tori Kudo and Rick Potts / Ka-Bella-Binsky-Bungo!
2011年、kayo makinoが主宰していた東京のレーベル dependent direct sales (DDS) から150部限定で出版された工藤冬里とリック・ポッツのデュオによるCDRアルバム。その仕様はとてもじゃないけど一筋縄で収まるものではなく、LAFMSの創設メンバーでありイラストレーターでもあるリック・ポッツによるイラストが盤面にプリントされたCDRのほか両アーティストそれぞれが書いた作品についてのテキスト、お互いのことを記しあった濃厚なライナーノーツ、そして、陶芸家でもある工藤冬里にまつわるブツや、作品や作家と脈絡があったりまったくなかったりするチラシやポストカード(私が所有するものには“劇団そぞら群”の古いチラシも……知らんけど)が黄封筒にごっそり封入された一点もので、まるでダダ〜フルクサスらを源流とするメールアートのような意匠があり、自宅に届けられたときにはひどく興奮したものだ(郵送のみで手渡しの販売はしていなかったと記憶する)。
リック・ポッツが「ナンセンスマントラ」と呼ぶその内容は、ときにヒリヒリときにマッタリ、ときにコミカルときにリズミカル、ときにシリアスときにベラボウ、ときにシュールときにユーモラス、ときにパンクときにサイケに……両者が発する音という音がこもごも入り乱れてじつに風味のあるアヴァンギャルドを展開する。フェンダーローズを片手にマックの音声再生ソフトを駆使して不可思議な言葉を並べ倒す工藤冬里。可能な限りのモノや楽器を使い、民族的アプローチで自発的な音を鳴らすリック・ポッツ。その奇天烈すぎる音の交感はまるで最初期のハーフ・ジャパニーズ、はたまたパズルパンクスに頭をガツンとやられたときのような衝撃をともない、言語コミュニケーションのはるか彼方で自由に漂い遊ぶ秘境のお遊戯にばったり遭遇したような目撃感がある。捕まえようにも脇の下をするりとすり抜ける音・オト・おとの不思議大百科。変てこりんでかっこ良い。これ最高である。
同年、(いまはなき)六本木スーパーデラックスにてこのデュオによるライヴが開催された。リック・ポッツが使用していたのは、サンプラー、ガラクタ、笑い袋など音が出るさまざまなおもちゃから、ネックが途中でべこんと折れ曲がり、だら〜〜んとたわんだ弦の響きが横山ホットブラザーズのノコギリ芸ばりに時空をすっとこどっこいに歪ませる「ちょうつがい首ギター」ほかもろもろのもろもろ。工藤冬里はギターやピアノをメインに音を出しつつ、いろんな角度とタイミングで椅子の足をフロアに擦りつけて「ギギギィーー」と引きづり回して攻撃的な軋みを発するなど異様な緊張感と心地良いトリップ感を醸し出していたのを昨日のように思い出す。最底辺にして最高峰の騒音。徹底的な「ノー!」から産まれる意味をもたない、つくらない、もちこませない音楽。肩から耳に息を吹きかけられるように生々しくも混じり気のない音の連続に、いつしか音楽からはぎ取られていた原石を見たような気がした。
余談になるが、水木しげるから多くの影響を受けていたというリック・ポッツ。その奇妙な佇まいが「足長手長」のように見えたのは私だけでしょうか?
The Smiths / Hatful of Hollow
「君が行きたいんやったらクラブがあるよ。ほんまに愛してくれる誰かに会うために行ったらええやん。行っちゃえ、行っちゃえ。ほんで、独りで突っ立ってたらええやん。ほんで、独りでクラブから出てったらええやん。家帰って、泣いて、死にたなったらええやん」
ツイッターのThe Smiths 関西弁bot(https://twitter.com/kansaismithsbot)が定期的につぶやく “How Soon is Now” の後半歌詞。ある種の青春を過ごしたものにとってこの歌詞は痛いほど突き刺さるし、そうでないものにとってはただ惨めったらしくて冷笑の的になるのかも知れない。
現在のモリッシーがどんな人物であろうと、ここに見事に端的な物語として、若きスティーヴン・パトリック・モリッシーが刻みこんだ思春期のひどくて美しい絶望は永遠。
かつての心に茨を持つ少年もどきが中年になり、このような駄文をつらつら書き連ね、そのうち初老を迎え、やがて死を前にするときになっても、この蒼白き青春の苦味と後ろめたさのハイライトは私の心に暗い影を落とすのだろうか?
Cabaret Voltaire / Shadow of Fear
キャバレー・ヴォルテール26年ぶりの新作。とはいえ、その間もオリジナルメンバーのリチャード・H・カークは多くの名義でさまざまな実験を試みる作品をリリースし続けているので、ごぶさた感はあまりないが……キャブスとなれば話は別である。
どっしりと打ちこまれたチープで硬質なリズムに、穏やかでない電子ノイズやワウを効かせたファンクなうわもの、さらにハウス〜テクノにエスノな風味も乗っかり、あちこちに怒号のようなボイスサンプルが飛び交う。ああ、これはまさしく攻めるキャブスである。
蛇行することなくまっすぐ反復。鈍くもあり鋭くもあり、新しくも古くもなく、絶妙な塩梅でびっくりするほどキャブスに徹するリチャードの生真面目さというか、潔さというか、肌に染みついた粋でいなせなインダストリアル気質は、アルバムを聴き進めるごとにヴォルテージを上げていき、ラストのマーヴィン・ゲイに捧げたと思しき金属エレクトロ・ファンク “What’s Goin’ On” でざらついた色気とスリルを残したまま幕を閉じる。
ここにクリス・ワトソンのテープコラージュやステファン・マリンダーのベースとボーカルを求めるのは野暮というもの。しっかりと攻めのピントを合わせてきたリチャード・H・カークによるひとりキャブスに、両手の裏まで使って拍手を贈りたい。
Piano Magic / Son De Mar
独自の美学を貫き続けてとてつもなく完成度の高い作品を残しているものの、一部の好事家を除いて日本での評価はいまひとつ。なんてアーティストは数多くいるけれど、96年にグレン・ジョンソンを中心にロンドンで活動を始めたこのエクスペリメンタル・ポップ・ユニット=ピアノ・マジックもそう。
名門4ADからリリースされた本作『Son De Mar』(2002)は、ビガス・ルナ監督によるスペイン映画『マルティナは海』のサウンドトラックとして制作された作品。そしてこの映画といえば、どうしようもなくどうしようもない精力旺盛な男ウリセスと、どうしようもなくどうしようもない肉感的な女マルティナの悲恋の物語であり、終始官能的なムードを漂わせながらもラストはマルティナの夫の罠に落ち、二人がともに海の底に沈みゆくという美しも破滅的な内容。
ピアノ・マジックのトラックは、ヴィオラ、キーボード、ギターをメインとし、シンプルな音の点と線がヒリヒリした緊張感を維持しながら情緒豊かに音を紡ぐ。そして、そこにフィールドレコーディング好きの耳もくすぐる波の音が覆いかぶさり、ミニマルな鼓動をふくめたすべてを無慈悲に飲みこみ、また静かに漂う。その音の大海原による揺らぎは不吉な予感と隣り合わせにある異様なまでの美しさを携えており、アンビエント効果も抜群である。
映画のなかで印象的な地中海の映像美とマルティナ(レオノール・ワトリング)の曲線美を思いながらこの音に聴き惚れていると、うっかり意識が遠くなり耳が音の海に溺れそうになる。そして、鼻の奥には微かに死の匂いがこびりつく。
「沈没系音響名盤」なんてものがあるとするなら、ギャビン・ブライアーズ『タイタニック号の沈没』、ナース・ウィズ・ウーンド『Salt Marie Celeste』と並べてこの作品を讃えたい。