Cromagnon / Cave Rock


アモン・デュール『Psychedelic Underground』(1969)、あるいはレッド・クレイオラ『The Parable of Arable Land』(1967)と並べて語っても十二分におつりが返ってくる、脳みそとろける土着サイケデリアの極北にして、最果ての森の奥深くの洞窟でぞわぞわ垂れ流されているかのごときイカレた擬似遊宴。そして、アヴァンギャルド音楽の宝庫ともいえるESPディスクのカタログの中でもさらに異彩(というか異臭!?)を放つ、意味不明ジャンク/スカムの教典として床の間のさらに一段高いところに飾りたい1枚がこれ。1969年作。

冒頭の “Caledonia” こそバグパイプの高らかなテーマがこだましていくらかポップに聞こえたりするけれど、その後は歓喜ともむごたらしいともいえる嗚咽、怒号、叫び、わめき、悲鳴、どなり、奇声、つぶやき、気の触れた笑い声などが入り乱れ、さらにそこにおかしなリズムや電子音、エフェクト、ノイズギター、もっさりとしたテープコラージュが頓狂に交錯するからもう大変。言葉が産まれる前の得体の知れないかたまりがむき出しのまま異様なテンションで爆発し、いかがわしき乱痴気騒ぎの狼煙を上げるのだ。

若きスティーヴン・ステイプルトンの耳にひっかかり、かのNWWリストに掲載されたのも納得の1枚にして、笑って済ませるには突き抜けた表現があまりにも鬼気迫るこの野蛮美。文明社会の無意味なルールとは百億光年かけ離れたところで鳴らされるこの開拓精神はとてつもなく自由で高潔であり、ある意味、未開人の幻想とファンタジーといえるかもしれない。

Houseside / E.S.P.


渦巻く轟音が螺旋を描いて上昇し、その発光があたりをビカビカの蛍光色に染め上げる下重守のギター。ダビーな音響処理も絶妙に、重くタイトなリズムを刻む神美長ヒロキのドラム。そして、現在はOOIOOのベースや坂本慎太郎のバンドのベースとしても活躍する本田アヤの低くうねるベース。で、何より彼女の歌である。音の壁と静寂の隙間を漂い、つぶやくように言葉を並べ、楽曲に儚くも美しい彩りを与える憂鬱な光沢。

北村昌士プロデュースの元、彼が主宰したSSE COMMUNICATIONSからリリースされたハウスサイドの93年ファースト『E.S.P.』は、その2年前にリリースされたマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン『Loveless』の影響もひとつ感じられるのだが、そんな例えや想像をはるかに超えるまばゆい高みと、とめど尽きせぬ泉のごとくあふれ出る超感覚的知覚体験の誘惑にこちらの官能も鋭く尖りまくる。

シュガーコーティングされた甘くておいしいノイズにポップさも散りばめたこのファーストと翌94年にリリースし、より遠く音響的でトランシーな世界を完成させたセカンドにしてラストアルバム『Mindwar』。この2枚はリリースから30年近くの時を経たいまも、プリズムの板を通しているかのごとき虹色の強烈な光と幻想的かつ独創的なサイケデリアで私の全身全霊をくらくらと包みこんでくれる。

〜余談〜
東京からハウスサイドがやって来るということで、94年に十三ファンダンゴで私が唯一体験したハウスサイドのライヴ。下重の耳をつんざくギターワークの繊細で天才的なひらめきときらめきを確認するとともに、曲をぐいぐい先導して太くバキバキ波打つアヤのベース、そして、轟音マインドウォー・アンサンブルに埋もれてほとんど聞こえてこなかった……声と佇まいの危き可憐さに恍惚とした当時の空気がぶわーんと蘇る。
京都のジーザス・フィーヴァーとの共演なんていまやおとぎ話のような組み合わせだったのだが、ジーザス・フィーヴァーのドラムのチャイナが、そのまま続くハウスサイドでもサポートとしてドラムを務めていたのは二度見どころか、演奏の終わりまでというか、家路の途中もというか、いまだに目を疑う光景なのだが、あれは私の夢だったのだろうか?

Nico / Live In Denmark

ニコがマンチェスターをすみかとし、地元のポストパンク・バンド=ブルー・オーキッズをバックに従えていたと思しき時代(クレジットがどこにもないので不明)の82年デンマーク・ライヴ盤。

いつになくソリッドな演奏に(ニコが残す数多くのライヴ録音の中でも格別)、あの漆のように黒く深い、永劫の闇のなかから拾われてきたような歌声がそよそよと立ち現われ、異様な緊張と不気味な美しさを醸し出す。いまにも消え入りそうなロウソクの火のようにはかなく、底にはぼろぼろの危うさを持つ率直な美しさ。

ニコがハーモニウムの前に座り、”Janitor Of Lunacy”を歌い始める瞬間の魔力。その鈍く輝く持続低音の閃光はヨーロッパの深き哀愁であり、何かの凶変が今にも突発するのではないかという不吉な予感とともに、まるでひとりぼっちの少女の孤独のように愛おしい。

Tony Conrad / Bryant Park Moratorium Rally

1969年10月15日、午後。マンハッタン42番街にあるロフトの5階にて、録音のためのマイクを調整するトニー・コンラッド氏。左マイクは近所のブライアント・パークで開かれていた反ベトナム戦争集会の熱気がもれ聞こえる部屋の窓に向けられ、そして、右マイクはその集会の様子を実況生中継していたコンラッドの部屋のテレビに設置され、ローカルニュースの音声を捕獲する。

そんなフィールドレコーディングとしての特異すぎるアイデアだけでも好奇心をくすぐるのに、この録音には、群衆の演説、怒号、歓声、シュプレヒコール、車のサイレン、クラクション、警官のホイッスルなどのエネルギッシュな騒音。そして、ニューキャスターやコメンテーターのトークらが、ささくれ立った砂混じりの暴風のように迫りくる混沌として収められ、さらには、左の現実の音(リアリティ)が右のテレビの音(メディア)より少し遅れて聞こえてくるという—— メディアに踊らされる大衆を批判するかのようにも響く⁉︎—— 天然エコー/ディレイ効果を得られることにより聞く者の耳が研ぎ澄まされ、みるみる開いてはぐちゅぐちゅと感度を高めていき、終いには自分の耳がコンラッドの耳と入れ替わったような……いわく言いがたい快感を味わうことができる

現場の不穏と居間の平穏。一つの出来事が耳のすぐ側で同時進行しつつも、平行線のままいつまでも交わることのない似て非なる二つのノイズ。

本作のコンセプトを含めた実験音楽としての素晴らしい成果は言わずもがな。そして、この音は、そこにコンラッドが居合わせたという歴史的偶然と録音手法の奇妙な閃めきによって永久保存された「モラトリアム世代の熱くて淡いノスタルジア」としても貴重なドキュメントである。しかしながら、この記録をただ楽観的に耳にするには、まったくもって世界はいまだに悲劇的すぎる。

Tori Kudo and Rick Potts / Ka-Bella-Binsky-Bungo!

2011年、kayo makinoが主宰していた東京のレーベル dependent direct sales (DDS) から150部限定で出版された工藤冬里とリック・ポッツのデュオによるCDRアルバム。その仕様はとてもじゃないけど一筋縄で収まるものではなく、LAFMSの創設メンバーでありイラストレーターでもあるリック・ポッツによるイラストが盤面にプリントされたCDRのほか両アーティストそれぞれが書いた作品についてのテキスト、お互いのことを記しあった濃厚なライナーノーツ、そして、陶芸家でもある工藤冬里にまつわるブツや、作品や作家と脈絡があったりまったくなかったりするチラシやポストカード(私が所有するものには“劇団そぞら群”の古いチラシも……知らんけど)が黄封筒にごっそり封入された一点もので、まるでダダ〜フルクサスらを源流とするメールアートのような意匠があり、自宅に届けられたときにはひどく興奮したものだ(郵送のみで手渡しの販売はしていなかったと記憶する)。


リック・ポッツが「ナンセンスマントラ」と呼ぶその内容は、ときにヒリヒリときにマッタリ、ときにコミカルときにリズミカル、ときにシリアスときにベラボウ、ときにシュールときにユーモラス、ときにパンクときにサイケに……両者が発する音という音がこもごも入り乱れてじつに風味のあるアヴァンギャルドを展開する。フェンダーローズを片手にマックの音声再生ソフトを駆使して不可思議な言葉を並べ倒す工藤冬里。可能な限りのモノや楽器を使い、民族的アプローチで自発的な音を鳴らすリック・ポッツ。その奇天烈すぎる音の交感はまるで最初期のハーフ・ジャパニーズ、はたまたパズルパンクスに頭をガツンとやられたときのような衝撃をともない、言語コミュニケーションのはるか彼方で自由に漂い遊ぶ秘境のお遊戯にばったり遭遇したような目撃感がある。捕まえようにも脇の下をするりとすり抜ける音・オト・おとの不思議大百科。変てこりんでかっこ良い。これ最高である。


同年、(いまはなき)六本木スーパーデラックスにてこのデュオによるライヴが開催された。リック・ポッツが使用していたのは、サンプラー、ガラクタ、笑い袋など音が出るさまざまなおもちゃから、ネックが途中でべこんと折れ曲がり、だら〜〜んとたわんだ弦の響きが横山ホットブラザーズのノコギリ芸ばりに時空をすっとこどっこいに歪ませる「ちょうつがい首ギター」ほかもろもろのもろもろ。工藤冬里はギターやピアノをメインに音を出しつつ、いろんな角度とタイミングで椅子の足をフロアに擦りつけて「ギギギィーー」と引きづり回して攻撃的な軋みを発するなど異様な緊張感と心地良いトリップ感を醸し出していたのを昨日のように思い出す。最底辺にして最高峰の騒音。徹底的な「ノー!」から産まれる意味をもたない、つくらない、もちこませない音楽。肩から耳に息を吹きかけられるように生々しくも混じり気のない音の連続に、いつしか音楽からはぎ取られていた原石を見たような気がした。


余談になるが、水木しげるから多くの影響を受けていたというリック・ポッツ。その奇妙な佇まいが「足長手長」のように見えたのは私だけでしょうか?

The Smiths / Hatful of Hollow

「君が行きたいんやったらクラブがあるよ。ほんまに愛してくれる誰かに会うために行ったらええやん。行っちゃえ、行っちゃえ。ほんで、独りで突っ立ってたらええやん。ほんで、独りでクラブから出てったらええやん。家帰って、泣いて、死にたなったらええやん」

ツイッターのThe Smiths 関西弁bot(https://twitter.com/kansaismithsbot)が定期的につぶやく “How Soon is Now” の後半歌詞。ある種の青春を過ごしたものにとってこの歌詞は痛いほど突き刺さるし、そうでないものにとってはただ惨めったらしくて冷笑の的になるのかも知れない。

現在のモリッシーがどんな人物であろうと、ここに見事に端的な物語として、若きスティーヴン・パトリック・モリッシーが刻みこんだ思春期のひどくて美しい絶望は永遠。

かつての心に茨を持つ少年もどきが中年になり、このような駄文をつらつら書き連ね、そのうち初老を迎え、やがて死を前にするときになっても、この蒼白き青春の苦味と後ろめたさのハイライトは私の心に暗い影を落とすのだろうか?

Cabaret Voltaire / Shadow of Fear

キャバレー・ヴォルテール26年ぶりの新作。とはいえ、その間もオリジナルメンバーのリチャード・H・カークは多くの名義でさまざまな実験を試みる作品をリリースし続けているので、ごぶさた感はあまりないが……キャブスとなれば話は別である。

どっしりと打ちこまれたチープで硬質なリズムに、穏やかでない電子ノイズやワウを効かせたファンクなうわもの、さらにハウス〜テクノにエスノな風味も乗っかり、あちこちに怒号のようなボイスサンプルが飛び交う。ああ、これはまさしく攻めるキャブスである。

蛇行することなくまっすぐ反復。鈍くもあり鋭くもあり、新しくも古くもなく、絶妙な塩梅でびっくりするほどキャブスに徹するリチャードの生真面目さというか、潔さというか、肌に染みついた粋でいなせなインダストリアル気質は、アルバムを聴き進めるごとにヴォルテージを上げていき、ラストのマーヴィン・ゲイに捧げたと思しき金属エレクトロ・ファンク “What’s Goin’ On” でざらついた色気とスリルを残したまま幕を閉じる。

ここにクリス・ワトソンのテープコラージュやステファン・マリンダーのベースとボーカルを求めるのは野暮というもの。しっかりと攻めのピントを合わせてきたリチャード・H・カークによるひとりキャブスに、両手の裏まで使って拍手を贈りたい。

Piano Magic / Son De Mar

独自の美学を貫き続けてとてつもなく完成度の高い作品を残しているものの、一部の好事家を除いて日本での評価はいまひとつ。なんてアーティストは数多くいるけれど、96年にグレン・ジョンソンを中心にロンドンで活動を始めたこのエクスペリメンタル・ポップ・ユニット=ピアノ・マジックもそう。

名門4ADからリリースされた本作『Son De Mar』(2002)は、ビガス・ルナ監督によるスペイン映画『マルティナは海』のサウンドトラックとして制作された作品。そしてこの映画といえば、どうしようもなくどうしようもない精力旺盛な男ウリセスと、どうしようもなくどうしようもない肉感的な女マルティナの悲恋の物語であり、終始官能的なムードを漂わせながらもラストはマルティナの夫の罠に落ち、二人がともに海の底に沈みゆくという美しも破滅的な内容。

ピアノ・マジックのトラックは、ヴィオラ、キーボード、ギターをメインとし、シンプルな音の点と線がヒリヒリした緊張感を維持しながら情緒豊かに音を紡ぐ。そして、そこにフィールドレコーディング好きの耳もくすぐる波の音が覆いかぶさり、ミニマルな鼓動をふくめたすべてを無慈悲に飲みこみ、また静かに漂う。その音の大海原による揺らぎは不吉な予感と隣り合わせにある異様なまでの美しさを携えており、アンビエント効果も抜群である。

映画のなかで印象的な地中海の映像美とマルティナ(レオノール・ワトリング)の曲線美を思いながらこの音に聴き惚れていると、うっかり意識が遠くなり耳が音の海に溺れそうになる。そして、鼻の奥には微かに死の匂いがこびりつく。

「沈没系音響名盤」なんてものがあるとするなら、ギャビン・ブライアーズ『タイタニック号の沈没』、ナース・ウィズ・ウーンド『Salt Marie Celeste』と並べてこの作品を讃えたい。